好きと嫌いは紙一重
宿のことをとても気に入ってくださるかたがいるとする。ありがたい。もちろん好いてもらえれば頭の先から爪の先まで喜びます。一方でノミの心臓の私としては、同時に恐縮してしまう。自分はなにも特別なことはできていないし、いわば足りないことがたくさんで。なのに、絶賛されて、「あえてよかった!」と握手まで求められる、そういう状況になると、自分の心臓はキューンと音を立てて小さくなっていく(気がする)。
数年前、どうして嬉しい気持ちと寿命が縮むような気持ちが混在するかを自分なりに分析した。その結果、それは「熱しやすく冷めやすい」という可能性に怯えているのではないか…ということ。つまり、好きという熱がぐんっと上がるその鋭角はと同じ角度で嫌いになる瞬間がすぐに訪れるのではないか、と怯えている。だから、できればその好きになる角度は緩やかであって欲しい。好きという気持ちが緩やかに上昇していくならば、万が一、緩やかに下降だしてしまうときに「待った」をかけやすい。
今日もコロナの件になってしまうけれど、知り合いの宿のひとが「(経営的に予約が少ないのは大変だけど)かと言って泊まりに来て来て言うのもなー」とおっしゃっていた。SNSでも、「お願い営業は嫌だ」という方がいた。私も同意。宿泊(だけでなく消費全般)は双方のニーズが一致して成り立つと思う。「1166バックパッカーズに泊まりたい」「(あなたに)泊まって欲しい」というように。だから我々は「泊まりたい」と思ってくれるひとを増やしたいし、「また泊まりたい」と思っていただきたい。逆にいうと「(気分は乗らないけれども)泊まってあげる」というのは、誤解を恐れずにいうと望むところではないし、「(誰でもいいから)泊まってください」とは一度も思ったことがない。
ここのところ、オンラインショップで購入してくださる方は、何年も前に泊まりましたなんて方が多い。今もSNSを時々見てますよ、とか、あのあと結婚して今は子育て真っ最中です、なんて、注文メールとともに近況報告を教えてくれる。こういう風に、じわじわとゆっくりゆっくり時間をかけながら、宿のことを好いて気にかけてくださるひとたちとのやりとりは、キューンと音を立てて小さくなった心臓を、じんわりじんわりと暖めてくれる。
今日はちょっと、ゲストとのやりとりのなかで「気持ちに応えるって難しいなぁ」と思うことがあったのでした。
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